星々をめぐる 230423
つれづれに、カウンセリングやナラティヴや会話やポストモダンなどのことについて、
私が学び、感じていることなどを、書いてみたいと思います。
もしも、それらのことに興味のある方は読んでみてください。ありがとうございます。
今回は、NPACC(ナラティヴ実践協働研究センター)にて開催された「カウンセリング・トレーニングコース」を受講させて頂いた私自身の修了エッセイを載せさせて頂きます。
※今回は約7000字の文章になります。ご留意くださいませ。
NPACC(ナラティヴ実践協働研究センター)は、2019年4月に発足しました、日本の中で、ナラティヴ・セラピー(ホワイト/エプストン・モデル)をしっかりと学べる機関であると考えています。※1
NPACC(ナラティヴ実践協働研究センター)で行われた「カウンセリング・トレーニングコース ※2」を3年間に渡り受講させて頂きました。(2020年~2022年)
デヴィッド・パレが著作した新時代のカウンセリングの入門書「協働するカウンセリングと心理療法・文化とナラティヴをめぐる臨床実践テキスト」※3 を教材にしています。社会構成主義時代のカウンセリングを学ぶためのコースとなっています。
もしも、「カウンセリング・トレーニングコース」や、パレの「協働するカウンセリングと心理療法」の少し雰囲気が知りたいと思われる方にとっては、何かの役に立つ可能性もあるのかもしれません。
※1 NPACC(ナラティヴ実践協働研究センター)は詳しくは、こちらのホームページから。
ナラティヴ実践協働研究センター – ナラティヴ・カウンセリング・センター (npacc.jp)
私自身もここでの「ナラティヴ・セラピー実践トレーニングコース」を2年間学ばせていただき、2021年その課程を終了いたしました。ちなみに、「ナラティヴ・セラピー実践トレーニングコース」と、「カウンセリング・トレーニングコース」とは別のコースになります。「実践トレーニングコース」はナラティヴ・セラピー自体のトレーニングコース。「カウンセリング・トレーニングコース」は社会構成主義時代のカウンセリングの入門コースになります。
※2 「カウンセリング・トレーニングコース」は、一旦2022年に第1期のすべてのモジュールが終了し、
本年2023年2月より、今度は土曜日を中心とした約1年半のコースとして、さらにスタートしています。
オンライン講座「カウンセリング・トレーニングコース」2023~2024年コース – ナラティヴ実践協働研究センター (npacc.jp)
※3 「協働するカウンセリングと心理療法・文化とナラティヴをめぐる臨床実践テキスト」 デヴィッド・パレ著 (2021) 新曜社
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「カウンセリング・トレーニングコースを受講して」
岩本 善人
約3年間の長きコースが、いったん終了した。
はじめに申し述べたいのは、このコースは「旅の様相」を持っていたということである。
とても楽しい旅であった。そして、その旅は、私の中で今でも続いている感じがしている。
◆自分自身の声を聴く
半年置きに、開始・中断される、火曜日夜のZOOMでのセミナーは、その時折の「出会い」と「別れ」でもあり、「再会」や「変化」や「懐かしさ」のようなものも含まれているものであったような気もしている。
はじめのモジュール1からの参加の方も多いが、途中のモジュールからの参加の方もいらっしゃった。
海外から参加される方もいた。また、その方はさらに年月が流れ、日本から再度参加ということもあったようである。。
途中、「来週、結婚式なんです!」、と報告される方がいらして、みんなでお祝いというか喜びの拍手を送った覚えがある。その後、またモジュールが進んで、1年ほどたって、その方のご家庭の近況をお聞きした覚えがある。
生活や家族の変化ということも含めて、過ごした3年であった。
私自身も、途中、母が亡くなった。
また、約20年ぶりに、私自身が人生二度目の入院をすることになって、病院の許可を取って、
病室から、ZOOMに参加したこともあった。
そういう意味では、仕事等で参加が叶わないこともありはしたが、動画を提供して頂いたこともあって、全過程に参加をすることが出来た。一回一回の講座では、なんといっても、講義を聴いた後のディスカッションが楽しみで、今聴いたこと、学んだことを、ああでもない、こうでもない、ああでもある、こうでもあると、仲間と話せることが、学びを深くしていったと感じている。
途中コロナ禍となり、ZOOMで行っていたこのセミナーが、まるで、時代に合わせたかのように、適合していったのは驚くべきことだった。
その中で、ライブや対面と少しちがうセミナーの有効性にもすこし触れたくなっている。確かに、平日の19時からのセミナーは仕事を持つものとしてかなりつらいところがある。いつも、ぎりぎりで間に合うかのようにパソコンの前に座った覚えがある。はじめは、対面ほどの学びは得られないのかもしれないとの予想があったように思う。
しかし、ここで、ブレイクアウトルームでのディスカッションが、とても有意義であったように思っている。
対面ともまた違った感覚で話す、ZOOMでの会話はまたライブのそれとも違う種類の豊かな会話を創成してくれた。使っている五感は、確かに、対面とは異なるであろう。それでも、またちがった枠組みでの相互作用を可能にしてくれたようにも思う。
通常のリアルでの会話とは、おそらくは違うものでもあろう。共通項もありながら、そのバーチャルでの会話は、また別物として、さまざまな可能性を感じさせてくれる「会話空間」であったことを感じている。
同じ場所に集まらなくては出来ない会話だとしたら、日本全国また海外からの参加の方と毎週のように会話することはなかなか難しい。
そういえば、「いま地震がありました」とか「これから、台風の影響で、家族でホテルに避難します」との声もあったように思う。「雨がどしゃ降りです」とか、「こちらは、よい天気であたたかいです」なんて会話もしていたように思う。参加者の地域の差異も感じられる場であった。少なくとも、移動の時間を取られずに参加できることは、メリットも大きかった。
たまたま、コロナの影響で、モジュール1以降の状況で、みるみるうちに、さまざまな分野や機関や学びの場で、ZOOMでの開催が増えていった。「カウンセリング・トレーニングコース」に当初から参加していた私は、ある意味そういった「先駆け」に参加させていただいたのかもしれない。そのことは不思議なことであるが。現在の状況をみると、感謝しかない。
端的に述べるなら、「ZOOMでのディスカッションは、とてもいいぞ」という感覚である。
このことは、このコースを参加させて頂いた者として、声を上げておきたくなっている。
このような方法でも、学びは進められる。仲間と協働していけると感じていけるものを体験できたような気がしている。
◆この手法についてわたし自身が発見したことは、どんなものであろうか。
パレの手法というか、哲学から、わたしが感じているもの、受け取りたくなっているものは何であろうか。少し、自問自答してみた。
わたしが発見したものは、ナラティヴの技法とか心理療法の方法のようなものではないような気がしている。もしも、そういったものを学びたいのであれば、他にも書籍やセミナーはいくらでもあるのだろう。そちらで学んだ方が詳しく理解できるのかもしれない。わたしが発見したものは、パレが臨床やカウンセリングに向かっていく姿勢や態度といったものなのだろう。
ひとつめは、「目の前のクライエントさんを、いくつものストーリーとして理解する姿勢」である。
このことは、わたしにとっては、「BOX 1.2 たくさんの帽子–マリアにおける複数の文化的位置」(「協働するカウンセリングと心理療法」 p11)に象徴されることになる。そして、このマリアの登場シーンは、この本の中で、私が最も忘れられない記述となっている。
「たくさんの帽⼦――マリアにおける複数の⽂化内位置
私たち皆と同様に、マリアもまた複数の⽂化内位置を占めている。たとえば、⺟、妻、従業員、娘、カウンセラー、同僚としてなど、彼⼥はいろいろな帽⼦を持っている。彼⼥の対⼈関係はこれらの帽⼦によって理解できる。この帽⼦は、彼⼥のものごとの意味づけ⽅や他者理解のしかたを左右する。こうした彼⼥の⽂化内位置は⼈との出会いにおける⼒関係にも影響し、⼒がある側に彼⼥を⽴たせることもあれば、従属的な立場に置くこともある。さらに⼀⽇の中でも、周りの⼈々との関係に応じて、彼⼥の帽⼦は幾度もとりかえられる。このように、⽂化内位置は流動的で変わり続けるものなのである。……」(同 p11)
この記述から始まるマリア自身は、さまざまな帽子を持っている。それぞれの帽子。立ち位置、ポジションによって、その力関係やさまざまな文化の背景に影響されている「マリア」は、一個の人間でありながら、多くの様相のアイデンティティを表現するようだ。そして、さらに刻々と変化し続けている。
「そうだよな。」と思った。
一人の人間を、たった一つのストーリーなんかで語れるはずなどない。それは、多様な歴史や関係性を、まるでなかったものにすることにつながり、その人の尊厳をおとしめ、「簡単に理解してしまう」ことに向かっていってしまう。私自身、きっと、自身のことについて、他者にこのような理解をしてもらいたくないのであろう。どうすれば、目の前のクライエントを理解することが出来るのだろうか。この記述が、本書のほぼ冒頭に置かれた意義は大きい。カウンセリングという文脈で、「その人を理解していく」ということが、なにか確定的なものやゴール設定のようなものとしては描けないことを示している。理解し続ける姿勢、共に進行し続ける過程として捉えたいと感じた。「簡単に理解してしまう」ということの警戒心とともに、これからも大切に持ち続けたい。
2番目については、「会話に入る前の段階の前提になるところの姿勢」と表現出来るのかもしれない。
書籍の第一部は「実践のための準備」として約60ページにわたり、記述されている。ここまで、まだ本編のカウンセリングの会話自体は始まっていないのだ。
『第2章 治療的会話」(同 p39)のイントロダクションの冒頭では、セラピストのダニエルがクライエントのマリアを部屋へと招き入れるシーンから始まっている。座り心地のよさそうな椅子をいくつか並べ、マリアに選んでもらっている。
「『ああ、そのグレーの椅子がお好みですか』、ダニエルは腰掛けながら笑顔で言う。『それ、人気の椅子なんです。しばらく座っていると背中が痛くなるって言う人もいますけどね。座るところを途中で変えてもかまいませんよ。優柔不断な人だなんて思いませんので。』』 (同 p30)
この会話はいったい何だろうか。治療的会話への招き入れの姿勢を感じる。そこには、居心地のいい雰囲気を作る工夫が随所にみられる。おそらくは、マリアは肩の力を少しだけ抜いて、会話に入っていけるのではないだろうか。本書における特筆すべきこととして、前半の60ページを使って、会話に入る前の段階の前提になるところをていねいに扱っていることがあげられる。そこには、後述する「安易に理論やスキルといったものに傾倒しない姿勢」をも感じている。
この60ページを過ぎて、はじめて引用事例は実際の会話を始めていく。会話に入る前段階の姿勢を学んだというか、矛盾するようでもあるが、カウンセリング自体が、「会話を始める前から、すでに始まっている」ということも感じたのである。
3つめは、本書全体に流れながらも、特にさまざまなアプローチの紹介のときにもあった、「ひとつの手法を紹介し、工夫して、どのように実際に使えそうかを提示しながらも、さらに、そのことに批判的に目を向けることにも躊躇せず、目の前のクライエントとどのようにストーリーを紡げるのかの可能性をけして狭めることのない姿勢」である。
少し長い表現になってしまった。「安易に、理論やスキルといったものに傾倒しない姿勢」ともいえるのかもしれない。
パレは、ある手法を紹介した後、どうやら、そうでない手法の可能性もさらに探求をすることをやめない。さまざまな理論やスキル、技法といったものの、効果的な実践方法を模索しながらも、その方法の危険性や陥りやすい所、注意や配慮にも視点がいく。そのうえで、それを手放し、別の方法で行う可能性にも、つねに空間は開かれている。ここには、「倫理」の目線もあるであろうことが想像される。
われわれは、ときにある理論やアプローチというか手法を学ぶと、それを使ってみたくなる。そして、その効果を実際に感じ始めると、さらにその理論を信じたくなる。絶対とまでは言わなくても信頼していくのであろう。だが、そのときに、見えなくなるというか、置き去りにされる可能性があるのが、「目の前のクライエント」なのかもしれない。クライエントより、その空間の会話より、「理論」を重視していってしまうのかもしれない。そんな警鐘を学んだ感じがしている。
このことは、パレの「ケアの倫理」にもつながっている感じがしている。
一面、「このような工夫が考えられる」としながら。それでも、なおまた批判的にも考え直し、「そうではなかった可能性」というか、「どのようにしたら、カウンセリングの会話をさらに豊かなものにしていけるのか」との問いに留まり続ける姿勢を感じている。「ケアの倫理」とは、このようなものなのかもしれない。そこにあるスペースは、読み手の私たちのさまざまな選択をも可能にする。目の前のクライエントのために、どのように関わることが出来るのだろうか。私たちの動けるスペースが、そこにはある。
これは、もしかすると、「理論」や「技法」の「脱中心化」※註1 ともいえまいか。わたしたちが中心に捉えるべきは、クライエントであり、クライエントとの豊かな会話でありたい。そんなことを、パレの姿勢から発見したというか、学んだ感じがしている。
◆自分の人生といかに呼応したか
パレは、ナラティヴ・セラピストとして、ナラティヴの哲学をひろく広めたいとの想いから、この本を執筆したと聞いている。
実は、わたし自身、これまで、いくつかのカウンセリングのアプローチを学習してきた。その深度というか、熟練度は、それほどのものではないと思ってもいるが、これは私自身の特性として、さまざまなアプローチに、目の前のクライエントに役に立つかもしれない可能性を探求したいおもいが間違いなくある。そして、そのことは、その程度は別として、これからも続いていく感じがしている。わたしは、いろんなアプローチを学ぶのが好きなのである。どのようなことで、わたしは、そのような想いにいたるのであろうか。
このことは、カウンセリングや支援の関わりの中で、「けして、ひとつだけの方法だけをやっていれば役に立つというわけではないであろう」という考え方が、わたしの中にある。クライエントの会話をレスキューするためであったら、そこには、そのとき、そのひと、その場で、是々非々で、さまざまな可能性があるのではないか。「役に立つのであれば、なんでもあり」との声が響く。
このわたしの特性が、このパレの「協働するカウンセリングと心理療法」で、さらに、認証して頂いたようにも思っている。わたしの中では、「来談者中心療法」も「認知行動療法」も、ひとつのストーリーラインである。ときに、あるストーリーラインを浮かび上がらせることが、目の前のひとの役に立つのかもしれない。そして、パレがそうしたように、ひとつの理論やスキルが絶対なものではなく、ときに批判的に見直し、目前の会話に何が本当に役に立ちそうか選べる可能性を開きたい。これからも、ナラティヴの哲学や姿勢をベースにそのことに取り組みたくなっている。
そのことは、わたしの中にある、図書館の書庫というか、いくつもの声や引き出しや、そういったものを認証することにもつながっていく感じがしている。わたしのこれまでの人生というか、歴史というか、経験というか、出会ってきた人たちから頂いた認証や貢献についてもそのことで活かされていく、そんなことを感じている。さらに、つながり、拡がっていくのであろう。
◆この手法に参加するについて、自分の人生がどのような貢献をしたのか
ディスカッションでは、さまざまな参加者と交流、会話ができた。そこには、わたしのこれまでの人生経験というか、生活というか、そういったものが散りばめられている。(子供の頃の家庭の状況や、小学校のとき好きだったクラスメイトの話しとか、病気の話し、職場での上司との対立、失恋のことも話したかもしれない(笑)) そのことは、そこでの会話を豊かに出来たのであろうか。何か役に立てたのであろうか。その是非はわからないが、そうでありたいと考えている。
さらに、ディスカッションでは、さまざまな視点や考え方を共有する中で、他者の経験や自身の経験がつながっていくような体験をした。互いに経験を共有し、そのことで、互いの経験がさらに新たな意味を生成するものとして認証されていくのである。
参加者は、パレの哲学をセミナーで学びながらも、そのことを通して、ディスカッションの場で、自身のストーリーを話していく。
私自身も、いくつものストーリーを話したような気がしている。そのことは、互いのストーリーを並べて眺めながらその可能性を探求できる機会になったように思う。そのことにはわたしも貢献できたのではないだろうか。
実は、いくつものストーリーを眺めるように会話できる場所は、意外に日常生活ではないような気もしている。
これからも、私自身の支援の文脈でも日常でも、そのことの探求をしていくことに挑戦をしていきたい。そういった会話空間を作っていきたい。旅はまだまだ続いていくようである。
このような場を設定し、学びの空間を提供して頂いたNPACC(ナラティヴ実践協働研究センター)の皆さま、そして、共に学ばさせて頂いた参加者のみなさまに感謝の想いを感じている。
ありがとうございました。
※註1 脱中心化実践。「セラピストの人生という物語」マイケル・ホワイト p305 にはこう記述されています。 「脱中心化実践においては、相談にくる諸個人の人生と人間関係に対する治療的会話の現実的影響を理解する手立てとして、セラピストの知識と意識、もっと言うなら、セラピスト集団の知識と意識は、最優先されない。むしろ、諸個人の知識と意識こそが、優先され、特権化されるのである。」 主にセラピーにおける会話の中で、セラピストが中心にならないようにする実践ということであると考えています。 他、「ナラティヴ実践地図」マイケル・ホワイト p37.p187.p197にも記載あり。
参考文献:
・「協働するカウンセリングと心理療法・文化とナラティヴをめぐる臨床実践テキスト」 デヴィッド・パレ著 (2021) 新曜社
・「セラピストの人生という物語」マイケル・ホワイト著(2004) 金子書房
・「ナラティヴ実践地図」マイケル・ホワイト著(2009) 金剛出版
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