星々をめぐる 230822

つれづれに、カウンセリングやナラティヴや会話やポストモダンなどのことについて、

私が学び、感じていることなどを、書いてみたいと思います。

もしも、それらのことに興味のある方は読んでみてください。ありがとうございます。

 

「私にとっての、ナラティヴ・セラピー」

岩本善人

 2022年10月

日本臨床心理学会の「臨床心理学研究 VOL.60 NO.1」という研究誌に、

文章を載せて頂きました。

今回は、そちらに載せて頂いた文章を掲載させて頂きます。

15000字の長文になります。

ご留意くださいませ。

 

もし、ご興味あれば、お読みください。

よろしくお願い申し上げます。

 

YOSSY

 

 

 

 

 

 

************************************

「私にとっての、ナラティヴ・セラピー」

 

岩本 善人

 ***

 

 

「いってらっしゃい」

 

といって、少しうつむき加減で、不満そうに、でも満面の笑顔で私は、母を送り出した。

ここは東京の洗足池の駅である。

 

私は、そのころ、ほぼ毎日のように、夜の仕事に出かける母を送り出すために夕方ぐらいに、外に出かけた。自宅から駅まで、散歩した。

 

私は、住み込みのお手伝いさんといっしょに歩く。母の和服姿はとても華やかだ。

私が3歳ぐらいのことであろう。

 

「ちょっと遠回りして散歩してから帰る」というと、なぜか、この光景を思い出す。

 

家から駅までの道のりは、坂を上って下ってを、繰り返す。

母は、いわゆる「銀座のママさん」だった。

艶やかに、気品のあるたたずまいで、出勤をする。

 

そんなとき、私は毎日の「さみしさ」を堪えて、内に秘めながら、見送りにいくことが多かった。

 

ひとりでは行けないので、お手伝いさんに手を引いてもらった。そして、母が出発すると、泣きながら帰路につく。

 

そんな中、少しだけ離れたところにある「金魚屋」さんに、寄り道をすることが何度かあった。

 

泣きやまぬ私に、お手伝いさんは、その店に寄るたびにとてもきれいな金魚を買ってくれた。

赤色に金色に着飾った「金魚たち」は、私をなごませ、喜ばせ、いつしか泣き止んでしまう。

おかげで、元気に家に戻ることが出来る。

金魚たちは、ビニール袋の中で、ときに身体をうねらせ、我が物顔で、大きく羽を広げる。

 

その金魚たちを、家でどう育てていたかは、実はあまり覚えていない。

 

でも、ひとつだけ忘れられない記憶がある。

それは、一度だけ、道で、私が指にかけていた、金魚の入ったビニール袋を落としてしまったことだ。

 

夏の暑い日だったと思う。暑さで、空気がゆらゆらと立ち上るような日であった。

私は、「やっちゃった」という感じで、

金魚のために水の入ったビニール袋を拾い上げようとした。

 

すでに水はこぼれだし、なくなってしまい、

紅色の金魚はほぼむき出しになって

なすすべなく、救出は無理そうに見えた。

 

お手伝いさんは、私の手を引いて

「しょうがないわね。また買ってあげるから」と言って、いっしょに歩き出した。

 

私は、少し歩き出して、それでも、何度か振り返りながら、その金魚を眺めた記憶がある。

一歩一歩と遠ざかる。そんなところが残っている。

 

そのような、心残りがある。ざわざわする記憶である。

 

翌日から、金魚屋さんに寄ることはなくなったような気がする。

 

 

そんな母も3年ほど前に亡くなった。

そのお手伝いさんも、20年ほど前に亡くなった。

 

母は、89歳で亡くなった。もうそれほど艶やかなたたずまいはなかったが、気品はまだ残っていた。臨終の場にも同席することが出来た。

死に化粧に、紅をさした。

 

あの道に落ちた金魚がどうなったかはわからない。

残酷なことでもあろう。

でも、あの一歩ずつ何度か振り返りながら、そこから離れていく感じは今も残っている。

 

あの「距離」と「離れていく感じ」、そしてその「憧憬の念」とでもいう感覚からは、

なぜか、今も離れがたい感じがしている。

 

***

 

私は、ナラティヴ・セラピーを学ぶ産業カウンセラーである。2021年、日本臨床心理学会 第57回大会に、ネットを通して参加をさせて頂いた。はじめての参加である。

 

  今回主催者から「ナラティヴに関する文章を書いて欲しい。あわせて、分科会の感想についても触れてほしい」という依頼を受けた。私のようなものが何か皆さんにお伝えするものはないような気もしているが、せっかくの機会と思い、少し書いてみることにする。ただ、これは、私自身が「ナラティヴ・セラピー」に対して感じている感想にすぎないかもしれない。

 

冒頭の「金魚の物語」は、以前にナラティヴ・セラピーのプラクティスとして、自分自身やクライエント、事例の物語を記述する練習をした際に、私自身が書き起こした文章である。ナラティヴ・セラピーでは、クライエントとの関わりで、手紙や文書など「書く」ことを活かす「文書化の実践」と言われるものがある。そのことにも関係している。

 

私自身は、日常の何気ないシーンのどこかで、過去の物語を思い出すことがある。こうして自身の経験を文書化してみると、なにか気づくこともあるだろう。どのようにして、「落としてしまった金魚」の情景が浮かぶのだろうか。そのことと、「母の臨終」を並べておもい浮かべたことには、何かがあるのだろうか。そこには、まだ言葉になっていない私自身の「大切なおもい」のようなものがあるのかもしれない。そんなことを、レスキュー出来るのだろうか。そんなことで、また私はどこかに運ばれていくのであろうか。

 

 

分科会での横山克貴さんの「ナラティヴ・プラクティス 会話を続けよう」の資料にあるシェリル・ホワイトの文章からの話しはとても印象に残った。この辺を入り口にしてみたい。

 

資料から引用してみる。

 

***

 

書籍「ナラティヴ・プラクティス 会話を続けよう」のエピローグから

 

『ナラティヴな考えの展開は、精神保健システムにおける既存の考えに対する断固とした、徹底した挑戦の一環でした。』

 

(「マイケル・ホワイト Michael White 」 Wikipediaより)

 

『彼(マイケル・ホワイト)が精神科病院内のコンサルタントだった頃、「声」が聞こえる人たち、精神病を経験している人たちは一般的に、わたしたちに何か提供できるものなど持たない人と考えられていました。自分自身の経験を支持できる人とは見なされていなかったのです。統合した人間とも見なされてはいませんでした。それどころか、隠されるべき「向こう側の人」と見なされていたのです。マイケルが州立の精神科病院で働いていた頃、彼の関わり方は、通常の「専門家的」方法とは異なるものでした。そのことを示す特別なストーリーがあります。』

 

『マイケルは家から精神科病院まで、公園の中を歩いて通っていました。ある日、行きしなにボタンが落ちてしまい、ズボンがずり落ちてきました。ズボンを引っぱり上げながら歩くのは本当に厄介でしたが、なんとか病院にはたどり着きました。そして、サムの前に座ったのです。サムは、「声」が聞こえていたために閉鎖病棟に入っていた「患者」です。ワンウェイ・スクリーンのむこう側には、家族療法チームが据わっていました。ふたりの会話はこんな風に進みました。』

 

 

マイケル: サム、起こってほしくないことが起きるんじゃないかっていう恐怖を持ったことがある?

 

サム: もちろんあるよ。

 

マイケル: それじゃあ、君が怖がっていることについて悪夢を見ることがあるかい?

 

サム: うん、時々あるね。

 

マイケル: じゃあその悪夢が実際に起こる状況になったことはあるかな? 実現してしまったことは? 君が本当に心配していたことが本当に起こってしまったことは?

 

サム: うん、もちろんあるよ。言いたいことはわかるよ。何度もそんなことがあったからね。

 

マイケル: ところで、ズボンが踝までずり落ちる悪夢を見たことはある?

 

サム: あるよ!

 

マイケル: 実は、ここに来る途中、僕にも起こったんだよ。ボタンが取れて、ズボンがずり落ちてきたんだ。

 

サム: [この時点で、サムはとても心配気になる] あぁ、それがどんなふうか僕にはわかるよ。初体験の最悪の事態を迎えることがね。それが起こりかねないと思っていたところで……実際に起こるんだ。それでどうしたの?

 

マイケル: うん、ひどかったよ。それに、まだボタンが見つかってないんだ。今もなんとかこうやって隠しているんだから。僕はどうすればいいかなぁ。

 

サム: いいかい? 病棟に戻ってピンを持ってきてあげるよ。

 

『サムがピンを持って戻ると、そこで生まれた勢いと仲間意識に基づいて、面接は続きました。その間、スクリーンの裏にいたチームは、このやりとりに魅せられていました。それが通常の力関係をひっくり返したからです。「声」と共に生きていたその人が突然、セラピストの役に立ち、彼のズボンがずり落ちないように、文字通り手を貸していたわけです。マイケルにとって、それは普通の、尊厳を与え、再び名誉を与える会話でした。しかし、当時の専門職文化には完全に反するものでした。「患者」の提案や考え、貢献を奨励し、認めるのは、当時極めて型破りなことだったのです。』

(『ナラティヴ・プラクティス 会話を続けよう』エピローグより )

 

 

***

 

私はここから、「通常の力関係をひっくり返した」「当時の専門職文化には完全に反するもの」ということを受け取りたくなっている。この「抵抗」の文脈と同時に、サムにいまどんなことが起こっているのか、とても好奇心をもって聴きたくなっている。

 

ナラティヴ・セラピーは「社会構成主義時代のアプローチ」である。同時にマイケル・ホワイトはとても「フーコーの目線」を重視していると聞いている。

 

 

『私自身のアプローチはもっとフーコー的なんだ。ミシェル・フーコーの考えにとても影響されているからね。彼の主張では、知識の構成はいつも生きる実践と関連しているけど、その二つは同じものではないんだ。構成と実践は相互依存の関係にあるものの、それはひとつではないし、同じでもない。世界構成があって、生きる実践がある。~中略~ その多くは、フーコーによれば、権力実践ということになる。この点でフーコーは時に誤解されているけどね。「フーコーが権力は知識だと言った」とか「フーコーは知識を権力として暴露した」とかね。実際、彼は、そのような公式化を強く拒否して、権力と知識は別物だと主張したわけだ。この理解からすれば、私たちはセラピストとして、治療実践構成を持つものの、その仕事は、こうした構成と密接に関連した特定の実践、および技術と見なされ得る実践によって形作られてもいるよね。』

(『会話・協働・ナラティヴ』 マイケル・ホワイトの会話 p241)

 

 

「特定の専門知や伝統的な知が大きな力を持つこと」、「そうした動きの中で、その人自身の言葉や体験がそのままに尊重されるよりも周縁化されてしまうこと」から離れ、「抵抗」し、自身の生きやすい世界(そのひとの居場所)を生成していくには、どのような姿勢で、どのような工夫ができるのだろうか。

 

 

***

 

『もし実践を導く何かが必要なら、最初に探すべき場所は目の前のクライエントその人にある。なぜなら、ケアの倫理に従うのであれば、クライエント個々人が独自に持つ目的と関心を仕事の中心に置き続けなければならないからである。つまりカウンセリングの進む方向を示す羅針盤になるのは、他の誰とも違う目の前のクライエントに対するケアなのである。』

(『協働するカウンセリングと心理療法』 デヴィッド・パレ)

 

 

『ここではカウンセラーは「専門家」である必要はなく、(問題をつくりだす力に対して客観的な中立性を表明する代わりに)クライアントの人生に意義を見いだす過程で、好奇心にあふれた、関心を寄せている参加者であればよいのだ。この姿勢は、ナラティヴ・カウンセラーに求められている誠実な関与を表わすものであると同時に、このアプローチの生産的ではあっても技術には頼らない性格を示すものである。』

(『ナラティヴ・アプローチの理論から実践まで』第2章邦訳p.37 ウェンディ・ドルーディ&ジョン・ウィンズレイド)

 

 

『好奇心に満ちた態度を保つことは、カウンセラーが混乱やあいまいな状況との共存を受け入れることを助け、早急に治療的な解決に持ち込んでしまう非を避けることができる。』

(『ナラティヴ・アプローチの理論から実践まで希望を掘り当てる考古学』第1章 ジェラルド・モンク邦訳p.24-25)

 

 

『好奇心は、キリスト教、哲学、そしてある種の科学的概念によってさえも、次々におとしめられてきた悪です。好奇心すなわち軽薄というわけです。しかし私は好奇心という言葉が好きです。この言葉が私に示唆してくれるのは、軽薄とはまったく別のことなのです。それは「配慮」を喚起させます。つまり、存在するものや存在するかもしれないものに対して人が行う気遣いを喚起させるのです。これは現実に対する研ぎ澄まされた感性です。かといって現実を前にうずくまる感性ではありません。私たちを取りまく奇妙かつ特異なものを見出す敏捷さであり、慣れ親しんだものから逃れ、同じ事物をちがったふうに見ようとするある種の熱意です。起こること、すぎゆくことを捉えようとする情熱です。重要なものと本質的なもののあいだにもうけられていた伝統的ヒエラルキーを、軽妙に揶揄することなのです。』

(『ミシェル・フーコー思考集成Ⅷ』邦訳p289-290 フーコー)

 

 

***

 

こうして引用を眺めてみると、少しだけ、ナラティヴ・セラピーの立ち位置というか、姿勢・態度のようなものが浮かび上がってくる。そして、それはけして一様なものなどではなく、そのとき、その関わりごとで、様々な「配慮」と共に変化していくものであることも感じてくる。

「ナラティヴ・セラピー」とは、「理論」とか「技法」といったものではないのであろう。その態度・姿勢・哲学の在り方こそが、最も重要であることを感じてくる。

 

少しここで、主に「フーコー」に依拠するところであろう、「抵抗」の文脈についても、考えてみたい。

 

 

***

(「ミシェル・フーコー Michel Foucault」 Wikipediaより)

 

『力関係が生じるや否や、抵抗の可能性が生じる。』

… as soon as there is a power relation, there is a possibility of resistance”.Foucault, 1988b,p.123)

 

『人々は抑圧されればどこであれ、抵抗するのだ。』

(『⽀配、そして抵抗の術』 James Scott)

 

『人々は人生が投げかけてくるものをただ受けとるだけの受け身的な存在ではない。抵抗の契機はいつであってもあるものだ』

Foucault, 1980. p.322. Carey,Walther,& Russell, 2009より引用)。

 

『如何なる形の抑圧であっても、抵抗の存在を期待する。好ましい展開(「ユニークな成果」)は、抵抗の行為として理解される。人々が直⾯する障害や難題の⽂脈を考慮するとき、人々の⾃発性はさらに重要なものと理解される。「受⾝的な犠牲者」のディスコースによって⾒落とされている抵抗の⾏為を⽬に⾒えるものとする。』

(『協働するカウンセリングと心理療法』 デヴィッド・パレ)

 

 

 

***

 

 

ナラティヴ・セラピーにおける、「姿勢」「敬意」「好奇心」そして「抵抗」の考え方は、従来の「精神病理言説」や「専門的知識」の力関係を暴くために、ひとつの可能性を提示しているのかもしれない。

と同時に、ただこの方法だけで、すべてのことが豊かに語れるのではないだろうとのおもいもしてくる。ナラティヴだけが正しいとか、その理論や技法だけが有効であるとの考え方からは離れたくなってくる。そのこと自体が、矛盾するようであるが、「ナラティヴ・セラピー」の精神ともいえまいか。

 

 

『このような状況で、「何がナラティヴ・セラピーであるか」と具体的には定義できないものの、その根拠にある思想を共有していることで、ナラティヴ・セラピーであるとみなせるのではないかと筆者は考えています。それは人を問題の主たる責任者であると位置づけることを拒絶し、ものごとの「本当の真実」は存在せず、ただそのことを語るストーリーが存在するという立場を取ること、そして、その人自身に自分の人生を生き抜いていける資質、資源、能力が必ず存在しているという仮説を持っていることなどがあげられるでしょう。つまり、その人には必ずや希望があるのだという信念を持っていること、と言い換えてもいいでしょう。

そのため、モンクらは、ナラティヴ・セラピーを「希望を掘り当てる考古学」(Monk et al., 1997)と呼んだのです。』

(『ナラティヴ・セラピーの会話術』 p12 国重 浩一)

 

 

 

最後に、もう少しだけ、私自身の物語を提示して終わりたい。

 

***

 

「何が、あなたにナラティブセラピーへの魅力を感じさせるのでしょうか?」  (ナラティヴの「外在化する会話法」で使われるような質問)

 

今回、自分自身に、この質問をしてみた。

いつも感じることだが、それは、あまり予想しなかった方向から吹いてくる風に似ている。

その風は、なつかしい様でもあり、まだ見ぬ感じたことのない新しい風のようでもある。風といっても、一瞬のつむじ風のようなときもあれば、しばしの間、顔を吹かす新鮮な風のときもある。その風の様相は、実はいつも違っていて、私にとっては、それは、いつも驚きでもあり、楽しみであり、スペースの広がる瞬間である。ワクワクしてきて、どきどきしてきて、そして、何か少し満たされたような安心感と、少しさらに前へ進んだような気分が、入り、混じっている。

 

少しだけ言語化に挑戦してみると、それは、「なかなか語れないおもい」であり、「今まで語らなかったことへの憧れや期待」といえるのかもしれない。

 

「なかなか語れない」については、私自身の小さい頃のエピソードとつながっている。それは、父と母の離婚のエピソードである。今年で58歳の壮年になる私だが、今でも、この思い出は鮮烈に記憶に残っている。トラウマとまではいかないまでも、今でも私にとっての自身のアイデンティティのことや成長の方向を探ることに完全につながっている。そういう意味では、自身の「ライフストーリー」ともいえるのかもしれない。そして、これから語る話は、なかなか普通のタイミングでは、語ることができない。なかなか理解されない。たまたま、語れる文脈が出来たときにだけ、少し語ることが許されるものだ。そのチャンスは、実は日常にはあまりない。今回も、そのエピソードについて、少しだけ語れるチャンスを得たのかもしれない。少し記述してみる。

 

私は、父親の思い出がほとんどない。それは、4歳の頃に、両親が離婚したことによる。

父親の家系は資産家であり、父はいくつかの事業を行っていた(らしい)。母は、今から3年ほど前に亡くなったが、いわゆる銀座のやり手のママさん。銀座で店を経営し、バリバリと働き、「男になんか負けるはずがない」ぐらいの勢いで生きてきた、女傑であった。(そのことは、どうやら母が幼少の頃、戦後、満州から逃げのびてきたことが関係しているらしい。) その2人がどこで出会い、どんなことで結婚し、私を生んだのかは、それもあまり語られないので、私はよく知らない。

いずれにしても、私は、3歳ごろまで、何不自由なく暮らした(のだと思う)。東京の大田区の洗足池に庭付きの一軒家があり、父と母とお手伝いさんと血統証付きの犬とで暮らした(私はひとりっ子だった)。でも、父はほとんど家にはいない。また、母は、家からは出たり入ったりで、夜は銀座の店に出勤するために外出した。私は、夜は、お手伝いさんと犬といっしょに過ごした。さみしいのは当たり前の日々であった。

3歳~4歳の間ぐらいで、両親の夫婦仲が、幼い私の目にもわかるほど、悪化した。毎日のように、顔を合わせれば夫婦喧嘩、罵倒しあいの日々だった。(もちろん、具体的な内容までは覚えていない。でも、暴力はなかった。口喧嘩であった。) そんなことが、毎日のように、1年ほど続いた。私は、最初はとにかく泣いていた。それは、両親の喧嘩をやめさせるためだった。「こわい」という気持ちも確かにあったが、それだけでなく「私が泣けば、きっと、喧嘩はやめてくれる、この恐ろしい状況を回避できるに違いない」と画策して作戦を立てて、泣き続けた。(もちろん、この言語化は、大人になるにつれ表現できた文章と言い回しではあるが、それでも、そのときのおもいは、はっきりと記憶している。しかし、会話の内容までは覚えていない。)私の涙には、意図的な部分がすでにあった。最初の何度かは、母が喧嘩をやめることもあった。でも、しばらくして、私が泣いてもやめなくなった。喧嘩は続いていく。そんななか、私もあきらめたのであろう、泣くのをやめるようになった。今から思えば、感情を押し込めるのを覚えたのは、このときであったと思う。両親が暴風雨のように罵倒しあい、ののしりあう状況の中で、私は、おもちゃで遊ぶようになった。外の世界へアプローチをしても、何も変わらないことを学習したのだと思う。

そんなこんなで、結局両親は離婚することになった。最後の大ゲンカのシーンはとてもよく覚えている。なぜか、私は、「今日で父と母は終わりだ。」と感づいていた。なので、しばらく封印していた「泣き」を、その日は再開した。なんとしても喧嘩をやめさせるためである。しかし結果は、予想通り、母は家を出た。私は、自分のほうから母の手を取って、いっしょに家を出た。タクシーに乗り、うしろ座りになって見た洗足池の家や駅周辺の光景は、今でもイメージできる。たぶん、この風景は見納めだろうと、心の中で思っていたから、記憶に留めようとしたのだ。私は、母と祖母の家に行き、暮らすことになる。それ以来、父とは二回ほどしか会っていない。父が、私を連れ戻しに来たときである。(結果、戻ることはなかった。) その数年後に、父は亡くなったと聞いている。なので、父の生き方、また、男の生き方を探る旅は、このとき以来、私自身の隠されたテーマになっているのだと思う。そして、普段あまりこのテーマを意識することはない。

しばらく、祖母の家にいたり、他の親戚の家に預けられたこともあった。が、最終的には、祖母の家で、祖母と母と叔母と生活をすることになる。なので、現在に至るまで(今は妻と二人暮らし)、男性といっしょに長く生活をする経験がない。

 

 

***

 

少しだけ、「なかなか語れないおもい」についてのエピソードを記述してみた。もちろん、このストーリーには、その前後の歴史があり、また、価値観も含めて変化もするし、推進中ではあるのだが、ほぼ、常に私自身と共にあるストーリーである。このことをご理解いただきたい。

 

ナラティヴ・セラピーの会話の関わりの工夫の中では、例えばこういった「なかなか語れないおもい」を語れる空間を生成できる感じもしている。このことは実にとても魅力的である。数年、勉強する中で、そのことを感じている。そうでないところでは、「既に用意してきた、いつでも話せるおさまりのいい話」とかを、確認する局面も多い感じがする。それだけでは、とてもつまらない。決まったゴールに向かって、しかも、そのゴールは自分の好みのゴールではないかもしれないものであったり、外から決められたゴールかもしれないもの、に向かって努力するだけでは、なにか足りないような感じがする。そんなことを思っている。

 

そんななかにあって、私には、自身の経験から、ひとは「語れないおもい」があるのでは、という気持ちを共鳴できる可能性があるのかもしれないと感じている。

 

そして、「語れないおもい」が語られるとき、「今まで語らなかったことへの憧れや期待」のようなものが生まれてくるのを感じることがある。

 

先ほどの私のエピソードでいえば、

 

「もしも、そのような大変な状況のなかで、あなたのおもいを感じ、支え、理解してくれたひとはいましたか?  (ナラティヴの「リメンバリングする会話」のような質問) 」

 

と質問されれば、私は少なくとも二人のひとを挙げることが出来る。それは、洗足池の家の時代にいっしょに暮した「お手伝いさん」と、その後の移動してからの「祖母」の存在である。

 

「お手伝いさん」は女性で、祖母の家に引っ越してからも、年に何度も訪ねてきてくれた。もはや、雇用契約などなにもなかったが、何度も私に会いに来てくれた。「無償の愛」だったように思う。こんな私を愛してくれて、すべてを受け入れてくれた。甘やかしてくれたし、わがままもきいてくれた。

「祖母」も同様であった。他に孫は何人もいたが、私だけは特別な存在だったかもしれない。すべてを受け入れ、抱きしめてくれた。

この二人のことをおもえば、とたんに、私の身体はやわらかくなる。構えがとれる。少し暖かくなる。言いたいことが言えるようになる。好みについても、周りのことを気にせず、発言できるようになる。少し、わがままになれるのかもしれない。とても不思議な感覚である。自分の行きたい方向も見えてくるような感覚をもっている。

 

さらに、「小さい頃の両親との夫婦喧嘩の際に、どのようなことで、あなたは、『泣く』ことで、喧嘩をやめさせようと思ったのでしょうか。そして、どのようなことで、最後の大ゲンカのときに、また一時は封印した『泣き』を復活させ、また、喧嘩をやめさせようと企てたのでしょうか。そのことは、あなたの価値観のどんなことと、つながっているのでしょう。いま、この質問を聞いて、何かおもい浮かぶことがあるでしょうか。もしあれば、教えてください」と、仮に、私が質問されたらどうだろうか。

 

私は、必死だったと言いたい。生き延びるために必死だった。3歳で、出来ることは限られていた。私が、選択した方法は、『泣く』ことだった。どうにかして、両親を仲良くさせたかった。私の存在で、それが出来るものなら、どんなことをしてもそれをするしかないと思った。存在を示すのが、『泣く』ことだった。気付いてほしかった。そこで、何もせず、流れるままに見過ごすことは出来なかった。それではいけない感じがしていた。流れに逆らった。運命に抗いたかった。私がここに生きて、ここに居ることを告げたかった。たとえ、それが無駄でも、無理でも、告げなければならないような気がしていた。そのことは、とても重要な感じがする。あえていえば、「生きること」かもしれない。「生き延びること」「私として存在すること」なのかもしれない。そう、今思えば、両親に告げるということの他に、自分自身に伝えていたような気もする。

 

 

このようなことは、恐らく、質問されなければ語ることは出来ないのかもしれない。先ほどの「白黒のようなエピソード」に、色が付いていくというか、熱が増えてくる。そんなことで、希望というか、可能性も感じることが出来る。そんな感じを持っている。

 

このことは、重要なことなのかもしれない。「自分自身に伝えていたのかもしれない」は、今回、この文章化のプロセスの中で、はじめて言語化出来たものである。

これに関しては、「もともとあったものではないのかもしれない。いや、あったのかもしれない。そのことについては、よくはわからない。しかし、語れる空間があると、はじめて語れることがある。」のであろう。

そしてそこにきて、はたと考えはじめることができるのかもしれない。言葉にすることで、「そのうえで、本当はどうしたいのか」というようなこと。自分自身がそのことに対して、どんな立場を取りたいのかということも表明することが出来るように思う。そんな感じがしている。言語化していくこと、外へと表現していくことの大切さを考えている。

 

この一連のストーリーを、社会的構成の文脈として考えることも可能であろう。

資産家・事業家の父と当時の「華の銀座」の母は出会うことになった。そして、庭付きの一軒家を購入し、住み込みのお手伝いさんを雇い、息子を任せることになる。2人ともに仕事に精を出し、向かっているところはどんなところであったのだろう。このことはもちろん、あくまで妄想の域は出ない。しかし、「想像の翼」をここで広げてみると、ノスタルジックな原風景と共に、当時の日本の「高度成長時代」「いけいけどんどん」といった風潮も見えてくるのかもしれない。その中で、私の両親は、その文脈の中で歩みを進めていたのであろう。そこで、漏らしてしまったものは何なのだろうか。「お手伝いさん」や「祖母」は、もしかすると、そのことを補完する意味でも、家族をアシストしていたとも言えるのだろう。その渦中に「幼少の私」の存在もあったのだろう。どんなところから、そこへ向かっていったのであろうか。

そんなところからの影響なのか、子どものころからどうも私自身は、「組織の中心者」になるとか、「一定のポジションを得よう」とかいうことへの警戒心が強い。このことは、きっとこの子供の頃にこのストーリーから学んだ重要なことであったことも感じている。

 

 

 

***

 

この後半の私自身の物語を眺めてみると、「泣く」ことで、自身の存在を主張することは、もしかすると「抵抗」の文脈であったのかもしれないと思う。「抵抗」することが「生きる」ことであったのかもしれない。

冒頭の「金魚の物語」はなんだったのだろう。残酷とも思えるエピソードの中から、何かを救い出したいおもいもしてくる。そこにも「抵抗」が隠されているのであろうか。

 

ここまで来ると、その「抵抗の物語」をどのように浮かび上がらせるか。どのように会話していけるのか。どんなふうにそこに並べて置いていけるのだろうかということにおもいを馳せている自分に気がつき始めている。「力関係」をていねいに歴史的に、また社会構成的に浮かび上がらせると共に、それが、ただ単に対決の姿勢であるとか、糾弾して終わるようなところにいきたくないようなおもいがある。どんなふうにそのことを置いていけるのであろうか。互いに、どんな関係性やどんな可能性を探求していけるのであろうか。

そんなことを思っている。

 

 

 

ナラティヴ・セラピーを学習し、その姿勢を探求する「私自身の旅」は、これからもさらに続いていく感じがしている。

ときに、小高い山の踊り場に出るときもあった。そこから見える光景は、まだ見ぬ風景で、とても気持ちのよい風が吹いた。深呼吸もしてみた。また、これから、山を登ることもあるのかもしれない。坂を下るのかもしれない。ワインディングロードもあるのでしょう。川沿いを、風を感じながら走ることも、きっと。

 

この旅にはやはり仲間が必要な感じがしている。ときに、談笑したり、食事をいっしょにしたり、ときには、お互いの存在を共に感じながら支えあったり。

私にとっての人生の旅は、ナラティヴな風によって、さらに豊かなものになっていくであろうと感じている。

 

 

*********************

 

補足:「ナラティヴ・セラピー」の参考書籍の紹介

 

 

〇〇 「ナラティヴ・セラピー」の全体の概要を伝えるもの

 

ひとつのマイケル・ホワイトの全体を眺めるものとしては、やはり、

 

「ナラティヴ実践地図」 マイケル・ホワイト

この書籍になろうかと思います。マイケル・ホワイトが生前に最後に著作したものです。

ただし、ナラティヴ、特にマイケル・ホワイトの本は難解なものが多く、1冊目に読む本としてはかなり困難を極めるのかもしれません。

 

 

〇〇 「ナラティヴ・セラピー」の入門書としては

 

2冊の入門書をご紹介します。

 

「ナラティヴ・セラピーの会話術: ディスコースとエイジェンシーという視点」 国重 浩一 

「ナラティヴ・セラピーって何?  アリス・モーガン

私自身、この2冊の本を読むことから、ナラティヴ・セラピーを学び始めました。現在日本で読める本では、一番わかりやすいと感じます。この本を入り口にして、学び始められると思います。

〇〇 その他の関連書籍

「ナラティヴ・セラピーのダイアログ: 他者と紡ぐ治療的会話,その〈言語〉を求めて」 国重 浩一、横山 克貴 他

「ナラティヴ・セラピー」の実際の会話が見たい。逐語で確認したいという方にお勧めします。実は、この本は類書にみない画期的な書籍であると感じています。それは、ここでの逐語のストーリーをさまざまな人が読み解いていくのですが、そこに、たったひとつの結論のようなものを、けして、見出しません。ひとつの逐語に対して、3人の読み手が自身の想像を膨らませていきます。 (実際のクライエント自身の感想やコメントも書かれています。) そこにはどんな可能性の選択肢があるのでしょうか。

■「協働するカウンセリングと心理療法-文化とナラティヴをめぐる臨床実践テキスト」 デヴィッド・パレ

2021年、12月邦訳が刊行されました。「社会構成主義時代のカウンセリング入門書」として書かれていると思います。著者はナラティヴ・セラピーの実践者ですが、そこだけに留まらず、さまざまな視点からカウンセリングと心理療法全般に関しての姿勢・在り方等を探求していきます。本書における特筆すべきこととして、前半の数ページ(約60ページ)を使って、会話に入る前の段階の前提になるところを扱っていることがあげられます。そこには、安易に理論やスキルといったものに傾倒しない姿勢を感じています。

■「会話·協働·ナラティヴ―アンデルセン·アンダーソン·ホワイトのワークショップ 」

 

「社会構成主義時代のアプローチ」の代表的3人。アンデルセン、アンダーソン、ホワイトが、フィンランド・ハメーンリンナで一堂に会した最初で最後のワークショップの記録になります。この本の特徴は、書籍の構成自体が「リフレクティング」構造のようになっていて、「会話についての会話」が折り重なっていくことです。会話文も多いので、さらっと読めてしまう部分も多いのですが、とても示唆に富む内容になっています。ここ数年の私自身のバイブル本のようなものになっています。

〇〇 「ミシェル・フーコー」の書籍についても紹介してほしい旨、話しがありました。

これについては、私は数冊、本が手元にあるだけで、まだ探求の旅は始まっていません。「フーコー」もさらに難解な文章であると感じます。そのうえで、個人的には、ナラティヴにひきよせて考えると、興味がわくのは、とりあえず2冊。

「監獄の誕生」 ミシェル・フーコー

近代管理システムとしての「パノプティコン」を探求するのであれば、この本かもしれません。

「知の考古学」 ミシェル・フーコー

地方の図書館にしかないような、誰も読まないかもしれない「民族史」や「郷土史」のようなものから、そのローカルな知をレスキューしていったフーコー。その姿勢が学べるのかもしれません。

さらに「フーコー」には、

「狂気の歴史」「言説の了解」「性の歴史」など、そして、

「精神医学の権力」「臨床医学の誕生」「精神疾患と心理学」「精神疾患とパーソナリティ 」等々の書籍も多数存在します。

***

私自身の旅も始まったばかり、さまざまな景色を楽しみながら歩みを進めていきたいと考えています。

いわもと・よしひと

(シニア産業カウンセラー・家族相談士)

 

 

依頼者からの一言

 

前回の大会の中で、ナラティヴ・セラピーに関してセッションが2つありました。それは、日臨心にとってのナラティヴ・セラピーがすでに特別な意味を持つものになっていることを物語っています。

日本でのナラティヴ・セラピーの大きな流れを代表する国重浩一さんには、2度に渡ってニュージランドからセッションをオンラインで、やり抜いていただきました。横山克貴さんには、このセッションのために膨大な資料を作って準備してもらいました。

このセッションの報告をするのには、講師であった国重さんか横山さんに何か感想かコメントでも書いてもらうか、参加者からの感想を集めて載せるというのが自然と言うか、通常に思えました。

それはどちらでも、そこに参加した人には興味深いものになるでしょう。しかし、セッションの主催者としては、むしろ、そこに居なかった(来れなかった)多くの人に興味深く読んでもらえるようなものにしたいと思いがありました。

そして、そのようなことを実現させるためには、どうしたものかを考えていて、思いついたのが、岩本善人さんのことです。その時に参加予定であったのに、事情で出れずに悔しい思いをしていた岩本さんには、書けることがあるはずです。そこで使われた資料を届け、ナラティヴ・セラピーに関して思うところを自由に書いてもらうことにしました。

岩本さんは、国重さんがやっている「ナラティヴ・セラピー実践トレーニングコース」の第1期生で、ナラティヴ・セラピーを学ぶ場面を具体的にわかっている人なので、何か興味深いことを書いてくれるのではと思いましたが、届いたものは、私の期待をはるかに超えるものでした。

この記事そのものが、ナラティヴ・セラピーの見事な「文章化の実践」になっています。これを読むと、ナラティヴ・セラピーに引き込まれるようになる人は少なくないでしょう。

今学んでいる人にも、さらなる動機付けを与えると思います。

 

最後にもう一言。

ナラティヴ・アプローチは日臨心の理念と広くも深くも重なっています。そして、ナラティヴ・セラピーは、日臨心のルネッサンス・プロジェクトを推進する社会構成主義の重要な実践です。

今後、さまざまなナラティヴ・プラクティスが、今のこの狭苦しい「臨床心理学」から脱し、大きく羽ばたいて行くことを強く願っています。

 

功久(いさく)

 

 


0件のコメント

コメントを残す

アバタープレースホルダー

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

PAGE TOP