星々をめぐる 230201

つれづれに、カウンセリングやナラティヴや会話やポストモダンなどのことについて、

私が学び、感じていることなどを、書いてみたいと思います。

もしも、それらのことに興味のある方は読んでみてください。ありがとうございます。

 

 

「主流」と「へり(周縁)」について

 

 

今回は、「リフレクティング・プロセス」のアンデルセンの文章から始めてみます。

※今回は約6000字の文章です。長さにご留意くださいませ。

 

トム・アンデルセンの文章を通して、「主流」と「へり(周縁)」について考えてみようかと思っています。

 

あなたは、「主流」か「へり」か、そのどちらかを選ぶのでしょうか。それとも、どちらも選ぶのでしょうか。さらに、どちらも選ばないのでしょうか。

 

 

**************************************

 

「なぜ我々は、今やっているような言葉づかいをしているのか?」という疑問に対する私の答えは、我々が口にすることが共通の言語文化に応じなければならないからだということである。我々の場合は共通の治療的な言語文化の中にあって、それにどうもとらわれがちである。その主流や、高級な会議や、著名な専門誌や権威ある学会や、進展を促してくれる同僚と親しくなるといったような環境に身を置くことによって、我々は話すべき話題や、ベイトソンやマツラナやサイバネテックスや、社会構成主義や、ミラノ派のアプローチや外在化や、リフレクティング・プロセスなどについての話し方を学習する。そして、どのように話さなければならないのかが分かったら、悲しいことだがその当を得た偏見はすぐさま顔を現わすであろう。簡単に言えば、それはその集団が正しいと決めつけたものなのである。

おそらく、その主流のどこに身を置くかは、まず我々が何をしなければならないのかを考えることではないだろうか? それはやめるべきだろうか? それはそのままにして、へりに移動すべきだろうか? そこ(へり)なら外からすべてを見通し、(主流の)集団言語をわずかなりとも修正できるのではないだろうか?

へりの言語はそもそもかなり孤立した言語であるかもしれない。そうでなければならないのだろうか?

おそらく、そうだ。なぜなら、もし疑いをいだく者たちが新たな学会や連盟において協定を結んだならば、そこからまだ新たな大きな流れが確かに生じるであろう。そうだとしたら、それ以上生じることはないだろう。

……

(「リフレクティング・プロセス 会話における会話と会話」トム・アンデルセン p159より引用)

****

 

トム・アンデルセンのリフレクティング・プロセス 会話における会話と会話」からの引用である。アンデルセンの黄色本といったほうがわかりやすいかもしれない。

はじめにこの文章を読んだとき、最後の文章の「それ以上生じることはないであろう。」の意味というか、意図がよくわからなかった。というよりも、アンデルセンは何を言おうとしているのかについて、とても混乱した。

 

 

「言葉づかい」について

 

「言葉づかい」についての冒頭の問いは、なんとなくわかる。実際のリフレクティングの場でも、専門家が専門家のポジションとして専門家どうしだけで話していれば、専門用語を気ままに使い、中心にいるべき話し手や家族に対して「配慮」のない言葉づかいをしがちであろう。それが、専門家どうしの話し合いの場を、家族に公開して、見て聴いてもらえるような場を作ることが出来ればどうだろう。とたんに、そのような無礼なというか、「まるで、物を操作する」ような、他人事のような言葉づかいは出来なくなるはずだ。(そうでありたいし、そう努力したい。※註1) 話し手や家族への尊厳というか、敬意をもった言葉づかいが必要になってくるのだろうと思う。

 

そのことと、この全体の文章の前半は、おそらくつながっている感じがする。「その主流や、高級な会議や、著名な専門誌や権威ある学会や」との表現にある通り、そういった主流な高級な場では、「専門家どうししかわからない会話」というか、具体的な事例や人や問題への配慮のない、切り離した話し方を学習してしまう。まあ、そのことに一定の意味はあるのかもしれないが、問題はそのあとにすぐさま現れてくる「偏見」の方である。

「そして、どのように話さなければならないのかが分かったら、悲しいことだがその当を得た偏見はすぐさま顔を現わすであろう。」 これは、分かってしまうと「偏見」が生まれてくるということ。そして、その集団が「正しい」と決めつけてしまうということなのだろう。簡単にわかってしまってはいけないのだなとも感じた。そのことは、そういった理論とか話し方のみにあてはめて、人や問題を理解しようとしてしまうのであろう。

 

そこには、それ以外の可能性やまだ進行中で動いていることやもっとローカルな事情を見落とす文脈がすでに用意されている。さらに、専門家側の姿勢・態度や他者への影響・責任といったもの、「倫理」のようなものが抜け落ちるのかもしれない。

そんなことを想った。もちろん、すべてあくまで私の空想であるので、ご留意くださいませ。

 

「主流」と「へり(周縁)」

 

さあ、ここからなのですが、アンデルセンは、ここで、

「おそらく、その主流のどこに身を置くかは、まず我々が何をしなければならないのかを考えることではないだろうか?…」といった問いを立てます。

そのうえで、我々は、「主流」に身を置くのか、「へり」に身を置くのか。これについて考えてみたかったのだろうと思えてくる。

ここで、「へり」とは周辺というか、周縁というか、マージナルというか、本当に隅っこのほう。すくなくとも真ん中ではない。端のほうであろう。

 

アンデルセンなら、どちらを選ぶのだろう。「主流」か「へり」か。

 

ある勉強会に参加して、この文章を音読して、対話を行った。参加者の皆さんのさまざまな声を聴くことが出来た。(おそらく、そこの勉強会に参加していなかったら、この文書を書くことはなかったと思われる。)

その皆さんの声のおかげで、私に浮かび上がったのは、

 

きっと、「アンデルセンなら「へり」に身を置くのかもしれない」、ということであった。

 

そのことは、「会話・協働・ナラティヴ」の本の「岐路」の章からも感じることが出来る。

 

****

「皆がすでにやったことを繰り返さないよう、主流をはずれて周縁に向かったことだ。そこで、やはり周縁の探求を好む面白い人と出会った。たとえば、ヤーコ、ハーレーン、マイケルなど、周縁を好む多くの人々がいる。」(「会話・協働・ナラティヴ」p56)

「僕らは、病院で働いているときには個別的な見方を頼りにしていたけど、それを捨てたのである。僕らは人々を、環境から独立した雑多な個々人と見ていた。何が起きているのか調べるために、個人を調べていたわけだ。しかし、外に出ることによって、僕らは文脈的な見方を採用し、人間を環境の一部として理解するようになった。~中略~ つまり、個人は文脈に属し、どの文脈も時とともに変化する。それで、「文脈」と「時間」が大事な言葉となった。」 (同 p57)

「病院の言語を離れ、普通の日常言語へと転向したことだ。」(同 p57)

 

****

 

 

「会話哲学」を想う

 

ここまでくると、下の文章の意図というか、アンデルセンの伝えたいものが少しだけ見えてきたような気がした。

 

 

「へりの言語はそもそもかなり孤立した言語であるかもしれない。そうでなければならないのだろうか?

おそらく、そうだ。なぜなら、もし疑いをいだく者たちが新たな学会や連盟において協定を結んだならば、そこからまだ新たな大きな流れが確かに生じるであろう。そうだとしたら、それ以上生じることはないだろう。

…… 」

 

「ヘリの言語」は、そもそもかなり孤立した言語でなければならないのであろう。

 

なぜなら、そこにこそ、新しい可能性があるのだから。動いているのだから。意味があるのだから。「文脈」と「時間」が必要なのだろう。だからこそ、生きているのだともいえる。 実験室や研究室のようなところだけではないものが浮かび上がってくる。植物にたとえるなら、その「土地」で育っていくには、その「土地」の「太陽」と「空気」と「水」も必要な感じもしてくる。

 

アンデルセンは「主流」を選ばないのではないだろうか。「へり」にこそ、そこにしかない「文脈」と「時間」がある。「主流」になってしまえば、「それ以上生じることはないだろう。」からだ。

 

そのことは、

 

「そこ(へり)なら外からすべてを見通し、(主流の)集団言語をわずかなりとも修正できるのではないだろうか?」

 

との記述からも感じることが出来る。

 

 

思えば、そこにつながるようなことがいくつもある。

 

「僕はむしろ「目に見えない」「聞いたこともない」人物と思われたい。」(「トム・アンデルセン 会話哲学の軌跡」p3)

 

「僕は、リフレクティング・チームという言葉はなくなればいいと思っているんだ。リフレクティング・トークといっても多種多様だ。」(同 p63)

 

「毎年一月にトロムソで開かれた集まりが総会として機能していた。そこには受講生であれ、スーパーヴァイザーであれ、全員が参加し、話すことができた。投票すべきことがあれば、全員が一票を有していたが、投票が行われたことはなかった。皆が合意に至るまで話したのだ。ネットワークには、会員制がなく、会費がなく、代表者がなく、目標がなく、規約がなく、予算がなかった。」(同 p77 註19)

 

 

リフレクティングもアンデルセンの会話哲学も、他の社会構成主義的アプローチも、「主流」というか、「メインストリーム」にならないことは重要なことのようにも思えてくる。

個人的には、このことに賛成したい想いでいっぱいである。

 

ナラティヴ・セラピーでは、セラピストの「脱中心化実践 ※註3」というものがある。そのことともつながってきている。

 

リフレクティングやナラティヴがもっと世間に知られていくことは必要な感じもしている。しかし、同時に、それが単純な「形式」や「構造」のような確定したものとして、社会の「メインストリーム」としてなってしまうように伝わることがないような、姿勢・態度・哲学はとても大切なことであると感じている。

 

これは、「周縁」に視点を持つということであろうか。そこに自身もポジショニングするという選択をするという表現も可能なのであろうか。

 

 

 

追記

 

ここまで書いたところで、ふと、アンデルセンの「あれもこれも」との言葉が思い出された。

 

先ほどの「アンデルセンなら、どちらを選ぶのだろう。「主流」か「へり」か。」の問いは、はたして適切なのであろうか。

 

そういう意味では、「主流」と「へり」を同時に横に並べることで、その選択を可能にしているともいえる、行き来できるようなものになっている感じもしてきた。私たちは動くことが出来るのだ。そのときの状況に応じて、自由に選択もできるのかもしれない。ここからは、「横に並べる平和活動 ※註2」を想起した。

 

このことは、「動く」ことを前提に発想しているとも考えられる。「動いていること」、現在進行系であること。また、「動くことが出来る」ような会話空間を生成していく工夫や視点も感じている。

 

「動いているのだ。」 「動けるようなところを、ともに作りましょう。」 もっと言えば、「動いていいんだよ」とのメッセージも聴こえてくる感じがした。

 

 

「アンデルセン、アンダーソン、そしてホワイトの仕事には、実体の心理学から動きと対話の心理学への転換を見出すことができる。自己、他者、そして関係は、もはや明確に分けられる実体ではなく互いを形作るプロセスである。つまり、自己、他者、そして関係が、常に形成過程にあるか、自己と他者は、関係プロセスにおける現在進行形の構築において関係的単位を形作っていくのである。」 (「会話・協働・ナラティヴ」p10)

 

 

きっとおそらく、そのうえで、アンデルセンは、ときに「へり」を選択し、身を置いているのかもしれない。

 

まず我々は何をしなければならないのだろうか。

 

そんなことを想っている。

 

 

最後に、この文章を書くきっかけとなった勉強会の参加者に感謝を申し上げたいと思います。

あの会話の場の「動き」と「対話」によって、記述することが出来ました。

本当に、ありがとうございました。

 

 

YOSSY

 

 

 

※註1 もちろん、アンデルセンの会話への取り組みが、リフレクティングの場の構造のみではないことは、とても重要なことであると感じている。リフレクティングの場の構造の発見のみには、けして留まらないアンデルセンの会話哲学については、今までは書籍としては、「リフレクティング・プロセス 会話における会話と会話」「リフレクティング 会話についての会話という方法」「会話・協働・ナラティヴ」等の書籍から、一部伺うことが出来たと感じている。202212月「トム・アンデルセン 会話哲学の軌跡」が発刊された。アンデルセンと矢原隆行さんの文章により、アンデルセンの会話哲学がさらに明らかになることになった。このことは、このタイミングで記述しておきたくなった。

 

※註2 「そういう時は、それらを横並びにさせるんだ。それが、僕にとっての平和活動。」(「会話・協働・ナラティヴ」p92)

 

※註3 脱中心化実践。「セラピストの人生という物語」マイケル・ホワイト p305 にはこう記述されています。 「脱中心化実践においては、相談にくる諸個人の人生と人間関係に対する治療的会話の現実的影響を理解する手立てとして、セラピストの知識と意識、もっと言うなら、セラピスト集団の知識と意識は、最優先されない。むしろ、諸個人の知識と意識こそが、優先され、特権化されるのである。」 主にセラピーにおける会話の中で、セラピストが中心にならないようにする実践ということであると考えています。 他、「ナラティヴ実践地図」マイケル・ホワイト p37.187.197にも記載あり。

 

 

 

参考文献:

 

・「リフレクティング・プロセス 会話における会話と会話」トム・アンデルセン著(2015) 金剛出版

・「会話・協働・ナラティヴ アンデルセン・アンダーソン・ホワイトのワークショップ」タピオ・マリネン、スコット・J・クーパー、フランク・N・トーマス編(2015) 金剛出版

・「トム・アンデルセン 会話哲学の軌跡 リフレクティング・チームからリフレクティング・プロセスへ」トム・アンデルセン、矢原隆行著(2022) 金剛出版

・「セラピストの人生という物語」マイケル・ホワイト著(2004) 金子書房

・「ナラティヴ実践地図」マイケル・ホワイト著(2009) 金剛出版


1件のコメント

千田 芳嗣 · 2023年2月2日 5:30 PM

小畑さんのところではいつもどうもありがとうございます。哲楽者を自称しています。

『哲楽(てつらく)』は僕が作った造語です。気楽な生活を全ての人が送れるような思想基盤の提供ってな目論見。

もちろん「哲学(てつがく)」→「哲楽(てつがく)」→「哲楽(てつらく)」ってな文字遊びもしてますが。

数学は人工言語。定義は厳密。論理は厳密。背理法を用いることによって矛盾を排除しています。
哲学も学問の一種ですから定義=概念の厳密性を選びたかったけど、なんせ自然言語ですから、厳密化しえません。

哲楽は自然言語の持つ「流通性」を重視した考え方に立ってます。こうしてやりとりして通じている「この現実」に立脚した考察を深めていこうってな態度なんで、これは哲学とは違う方向性を持っています。

具体的には対話し続けることでお互いのことを了解し合える可能性を深めていくこと。究極の終わりはありません。終わりのなさという不安定さに如何に耐えられるかが問題だったりします。

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