人生は複数の物語で出来ている。

「ナラティヴの視点では、社会で行われるさまざまな実践はナラティヴのパフォーマンスであると理解される。

何らかの筋書きがあって、キャラクターと配役が決められていて、一定の制約が設けられたものとして人々の活動を捉えるわけである。

こう考えると、人の行動を構築するのは、そこに流れるストーリーということになる。

従来の社会科学は、ストーリーの背後で作用している諸要因や働きを見つけることに主眼を置いてきた

ナラティヴの視点はこの考え方を180度転換させ、人々はストーリーを語ることを通して自分の生活を理解している

人の行動というのは、その人が作り上げた自分や他者に関するナラティヴに基づいている。

ストーリー自体の影響を検討してみると、多くのことが見えてくる」

 

人の中に要因を探していく姿勢は、人を現象の要因としてみることにつながっていく

むしろ人は、社会からの影響を受けて行動している存在なのかもしれない

 

「人は問題ストーリーに巻き込まれているのだと認識してみることである。」

 

対立の渦中にいる人が対立を作り出しているのではなく、対立のストーリーの影響を受け、巻き込まれている、

この視点の転換が問題から人を自由にしてくれるのかもしれない。

「人が問題なのではない。問題が問題なのだ」という言葉は、人に問題の要因を求めるな、問題から影響を受ける存在として人に接しろと言っているように聞こえる。

日々の社会生活の中では、対立が生じたとき、対立は人が引き起こしていると考えるのが、しがちなことだろう。

そして、対立を引き起こす人を問題視していく。

その人に何らかの欠陥があるという風になっていく。その人の性格が問題なのだと。

この欠陥思考が、どこから生まれてくるのか?

それは、人の内部に要因を求める思考パターンから生まれてくるのだ。

その思考パターンの意図はともかくも、副作用は欠陥思考を生み出しているということなのだ。

人が「何かを表現をするということは、その人の本質的な自己が現れることではなく、その人がそのナラティヴのなかで取る立ち位置が作りだされるということ」と考えることによって、違ったストーリーがあれば、違った表現ができる存在として人を認めることができる。

人も人間関係も複数の物語の中で出来ている。

今は、その物語の中で、その筋書きの影響を受けてパフォーマンスしていても、違う物語の意味付けが見出せれば、違う筋書きの物語を生きることができるのだ。

「人が問題ではない」と、初めに考えてみることは、人が違った物語を生きていくために、必要な思考パターンの切り替え、視点の切り替えなのだろう。

 

(『いじめ・暴力に向き合う学校づくり: 対立を修復し、学びに変えるナラティブ・アプローチ 』ジョン ウィンズレイド (著), マイケル ウィリアムズ (著),綾城 初穂 (翻訳),新曜社)

 


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