「誰だってそこにいたらそうなるもの」
「いじめ・暴力に向き合う学校づくり」を読む読書会の中で出てきた言葉。
暴力に至るきっかけの節には
「暴力は個人の性格が原因が起こるものでもない。
きっかけは関係的・文化的文脈の中に見出される。
日常に影響を与える社会文化的規範に目を向けると見えてくるものがある。」
と書かれている。
生徒たちの日常に存在している
「挑発されたのにやり返さないなんてヘタレだな。」
などの言葉は、そこにいたら誰だってそう振る舞うことが要請される当たり前のようなもの。
「縄張り意識は、アイデンティティが常に他者との関係の中で、他者との関係の中で作られる。物語と関連しながら形作られる。個人のアイデンティティは自分の存在確認できる何らかのグループ空間の中で、たとえるなら、自分が登録している会員制クラブの中で発達していく。」
会員制クラブの中でしか自分の存在確認をすることができないからこそ、そこにある当たり前は当たり前として受け入れてしまう。
しかし、動物と違って人間の縄張り意識は抽象的なものだから、柔軟に再定義することができる
そこに希望の物語を紡いでいく可能性はあるのだ。
フーコーは「規格化された判断」や「人々を位置づける正規分布」が社会的支配に利用されることを示した。
あらゆる人が「これが普通である」という定義を当たり前のものとして受け取っている。
正規分布から外れないようにしていようと意識して行動しないと、周辺に追いやられてしまう。
まるでイス取りゲームのようだ。
気がついたら自分が座るイスがないということになってしまう。
子供の頃から、自分が座るイスを確保するよう私たちは訓練されてきた。
イスに座れない人間がいることを認めることは、一瞬安心感をもたらすが、このイス取りゲームから降りれなくさせてしまう。
自分がスケープゴートにならないように、スケープゴートを探し続けなければならない。
それを正当化するのが、ネガティブなステレオタイプだ。
「何度も繰り返し使われている間に、あたかもそのステレオタイプが真実であるかのように理解されてしまう」
正当化するための思考停止は一時的には自分は安全地帯にいると思えるが、対立の火種がそこには燻り続けるとなる。
身近なステレオタイプに含まれるいろいろな間違いを意識的に探していくことで対立を解決できる上手いやり方を見つけられるかもしれない。
無差別殺人の背景には「疎外」があるという。
疎外された人を自分の目の前から見えなくしたとしても、どこまでも社会は繋がっているのだ。
いじめ・暴力に向き合うことは、「対立が起きるのは普通のことと考えること」
その上で、「お互いの違いが尊重され、相反する考え方のどちらにも価値が置かれ、一人ひとりの話に耳が傾けられ、皆が会話に入れてもらえるよう」
対立の背後にある「誰だってそこにいたらそうなる」ような当たり前に気づいて、それぞれが縛られている社会的文脈を見直してみる。
いじめ・暴力に向き合うことは、社会を再定義していく実践なのだろう。